大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 昭和53年(行ツ)1号 判決

上告人

国光日出生

上告人

原田昭夫

右両名訴訟代理人弁護士

尾山宏

鷲野忠雄

被上告人

山口県教育委員会

右代表者教育委員長

井上謙治

右訴訟代理人弁護士

堀家嘉郎

右当事者間の広島高等裁判所昭和四八年(行コ)第三号懲戒処分取消請求事件について、同裁判所が昭和五二年一〇月七日言い渡した判決に対し、上告人らから全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人尾山宏、同鷲野忠雄の上告理由第一点の一、二について

本件記録によれば、上告人らに対する本件各懲戒処分の処分説明書記載の処分事由は、「昭和三九年六月二三、二四日の両日にわたり実施された同年度全国中学校学力調査にあたり、(ア)担任する三年九組の在籍生徒四六名中、正常に受験したものがきわめて少なかった(上告人国光関係)、(イ)担任する三年六組の在籍生徒四六名中正常に受験したものがまったくなかった(上告人原田関係)、にもかかわらず、適切な措置を講ずることを怠った。あなたはかねて上記学力調査に反対しており、その言動が生徒に強く影響したものと解される。かかる事態が公教育に対する不信と不安の念をかりたてたことは無視できない。およそ教諭は、生徒の教育を掌ることを本務とするものであり、その職務遂行にあたっては、自己の使命を自覚しその職責の遂行に努めなければならないものであるが、上記の結果にいたったのは、その職務上の義務を著しく怠ったことによるものというべきである。」(文中、(ア)、(イ)の部分以外は同文)というものであって、その記載は具体性に欠けるきらいがあるものの、少なくとも、その記載自体から、処分権者である被上告人は、本件各懲戒処分の理由として、上告人らが本件学力調査実施にあたり、担任学級の生徒が正常に受験するよう「適切な措置を講ずることを怠った」こと及び「かねて上記学力調査に反対しており、その言動」において「職務上の義務を著しく怠った」ことを挙げていることが明らかである。そして、本訴において被上告人が上告人らに対する処分事由として追加主張した一連の服務上の義務違反行為は、いずれも本件学力調査実施前又は実施当日における同調査反対目的の行為であるとされているものであり、これらは右処分説明書記載の処分事由と密接な関連関係にあることが認められるものであるから、原審がかかる処分事由の追加主張を許し、その存否、評価を含めて本件各懲戒処分の適否について審理、判断したことは、正当であって、原判決に訴訟手続の違背その他所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は失当である。論旨は、採用することができない。

同第一点の三について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第二点の一ないし三について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過程に所論の違法はない。右事実関係の下において、所論の点に関する服務上の義務違背を肯定した原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第二点の四について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、上告人らに対する本件各懲戒処分について懲戒権者に委ねられた裁量権の逸脱はないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤正己 裁判官 木戸口久治 裁判官 安岡滿彦 裁判官 長島敦)

上告代理人の上告理由

第一点 経験則、採証法則、弁論主義違反の法令違背

原判決には、次のとおり、明らかな経験則、採証法則、弁論主義等に反する法令違背があり、破棄を免れない。

一、処分理由についての価値判断を誤った違法

上告人らに対する本件懲戒処分の実質上唯一最大の理由と動機は、生徒の集団的受験拒否の教唆煽動であることは、処分事由通知書(甲第四号証の三、四)の記載及び弁論の全趣旨にてらし疑いをいれない。

本件各処分は、もともと、教唆煽動という根拠のない予断のもとに断行されたため、被上告人は、訴訟段階において、別の派生的処分理由や裁量要素なるものを次々と追加し、これを撤回し、修正する態度をとったが、その軌跡自体が、本件処分の恣意性、不当性を浮きぼりにする結果となった(上告人らの一審における昭和四七年九月七日付最終準備書面(補充)参照)。

本件におけるように最大の処分理由が否定され、事後的、派生的に追加された理由を以て、処分の正当性を肯定するならば、地方公務員の不利益処分における適正手続の保障(憲法三一条、地公法四九条以下)は画餅に帰するであろう。

この理由なかりせば、この懲戒処分なしとされる前記教唆煽動の理由が否定された以上、他の派生的な理由がかりに部分的にせよ認定されたとしても、処分の軽重にかかわりなく、その適法性を否定すべきは、法理上、経験則上当然のことである。

しかるに、原判決は、上告人らの処分に関する限り、被上告人が主張する処分理由の軽重、相互関係に関する判断を誤り、いずれの事由をも個別的並列的に観たため、不当にも、上告人らに対する処分の適法性を安易に肯定することになったものである。

二、弁論主義の逸脱ないし審理不尽の違法

原判決は、被上告人が一審で明らかに「裁量要素」として主張した事由を、あるいは、処分理由か裁量要素か区別せずに原審の結審直前に提起した主張を、いずれも処分事由の追加として事実摘示しているが、これは、弁論主義の範囲を逸脱し、あるいは、なすべき釈明権の行使を怠った審理不尽の違法をおかしたものといわざるをえない。

すなわち、〈1〉六月一九日職員会議における上告人ら(上告人両名、多治比丈夫、久保輝雄四名)の学テ非協力発言(処分理由性は当然のことながら否定されたが)、〈2〉同月二二日の職員会議において上告人らが職務命令撤回を迫った行為について、被上告人は一審で、これらをいずれも「裁量要素」として主張した(被上告人の昭和四七年四月一三日付準備書面(第四回)四二、四四各頁)。しかも、被上告人が、原審において撤回、修正した事実もなく、また、被上告人の提出した原審昭和五一年五月一八日付準備書面(第二回)は、裁量要素、処分理由、背景事情など渾然一体をなした主張をもったもので、いずれに該当するかの釈明権の行使もなかったのであるから、原判決の事実摘示のし方はまぎれもなく、弁論主義の範囲を逸脱していることになる。(なお、これと同じ誤りは、別件における六月二〇日の職員朝礼における久保輝雄のいわゆる「偽善者」発言、五十川偉臣に関する「日記指導」についてもいえる。)

また、原判決は、一審において、被上告人が処分理由として、事実上撤回していた六月二三日の職員朝礼における職務命令書のいわゆる「叩きつけ」行為(事実は「叩きつけ」の事実などない)の点について、被上告人は、原審の前記準備書面(第二回)で、またぞろ主張し出したものであるが、果してこれが処分理由か、裁量要素かの区別について釈明権の行使すらなしに、原判決は、これを処分理由の追加として事実摘示した。しかし、右書面が実質審理が終って結審間際に提出されたことを考えるとき、まことに、不意討ちの観があり、審理不尽の違法は免れない。

(この点は、別件における五十川偉臣に対する「事前指導の欠如」に関する被上告人の主張についての原判決の扱いについても同様である。)

三、採証法則、経験則違背

原判決は、本件学テ拒否事件における上告人らの責任の軽重を論ずるに当り、管理者としての決断を欠いていた山本校長、厚南中学校を「組合管理」ともいうべき状態においてなす術のなかった市、県教委側、学テ反対斗争に同調協力した教職員の各責任にも言及している。

しかしながら、原判決のこの判示には、第一に、学校長の管理者(と同時に教育者としての両側面があるはず)としての一面しか把えていない点で、第二、学力テストが全国的に教育現場を未曾有の混乱に陥いれた根本原因を(教育現場の意向を無視した政策テストの強行に主因があるのに)もっぱら右学テ実施に反対した教員組合の側にあるとの偏見に立っている点で(以上二点については、一審における上告人らの昭和四七年八月九日付最終準備書面第一の部分に詳述)、第三に、厚南中学校があたかも「組合管理」状態にあったとの予断に発している点で、そして第四に、このような考え方が、上告人らの処分理由、ことに、対校長交渉や職員会議・職員朝礼が校長承認のもとに行われているのにもかかわらず、そこでの言動を安易に違法と評価する基本に横たわっている点で、幾重にも誤りをおかしている。

ちなみに、厚南中学校が、特に組合組織率が高いとか、はねあがった組合活動をしていた事実などはないし(一審竹田豊証言、木村成夫一、二審証言)、また、山本校長は、管理主義をふりかざすのでなく、現場教員の納得のうえに学校運営を行うタイプの人物であり、学テ問題を別にすれば、普段の学校運営は、「不和も不協和音もな」く、円滑に進められていたのである(乙五―二、多治比丈夫一審二九回尋問)。

そもそも、被上告人が「組合管理」論をもち出したのは、本件処分における空中楼閣性を糊塗する一種のレッテルとして、一審最終段階に至り、これを持出し、山本一夫証人などは、初期のころの証言態度とは、まるで人が変ったように、根拠のない抽象的な組合受難論を云々する仕末である。

(なお、安下庄中学五十川偉臣に対する「偏向教育」論も、同様な経緯で被上告人の提起したものである。)

原判決が、厚南中学は「組合管理」ともいうべき状態にあったとの認定に立って、上告人らの処分理由の価値判断等をしているとすれば、まさに、採証法則、経験則違背の誤りをおかしているといえよう。

また、六月二三日の職員朝礼における上告人両名外二名の間に「共同の意思のもとに、本件学力調査にあくまで抵抗を示す目的で」白紙答案無答責確認を持出したことを認定しているが(二五丁)、「職務命令が出た以上これに従わざるをえないこと」は、組合全体の意向であること、右無答責確認は、学テ実施を前提とする職務命令の範囲を明確にするための措置で、抵抗手段とは別であることは、関係証拠にてらし明らかである。したがって、右確認問題を抵抗の一態様とする原判決は、証拠判断を誤る違法をおかしたことになる。

第二点、法令違背(懲戒事由の不存在等)

原判決が、上告人原田、同国光の処分事由中左の点について服務上の義務違反を肯定したのは、法令の解釈適用を誤ったものである。なお、原判決の事実認定には採証法則等の違法があり、正しい事実認定とはいいがたいが、以下に述べるところは、原判決の事実認定を前提としても、本件各懲戒処分が違法であることを明らかにするものである。

一、上告人原田の六月二〇日の行為(原判決理由第二、二、(三)、(3)、(ロ))について

原判決は、同日、上告人原田が、職場会終了後他の分会員らとともに校長交渉を行ったことは、職務専念義務に違反するとする。しかし、この交渉は、管理者たる山本校長が拒否することなく最後まで応じていたものであることは原判決も認定しているとおりである(その経緯については原判決理由第二、二、(三)、(1)、(ニ)参照)。このように管理者であり、上告人ら所属職員を監督する立場にある校長(学校教育法二八条三項)が、拒否したり異議を述べたりすることなく、また授業を行うべきことを指示命令することもなく、上告人らの交渉に最後まで応じていた以上、右交渉は校長の承認のもとになされていたものというべく、このような交渉を職務専念義務違反として非難することは許されないものといわねばならない。この点について原判決は、「前認定の当日の経過に照らすと、右事実をもって同校長が右職場会の開催を承認し更に教職員らに授業を行う義務を免除したものと見ることはできない」と判示している。右にいう「前認定の当日の経過」というのは、判決理由第二、二、(三)、(1)、(ニ)に記載された経過を指すものと思われるが、そこでは、職場会の開催について、「校長や教頭は、学校運営の円滑を期するため止むを得ないものと考えて、右職場会の開催を制止しなかった」と述べるのみで、校長交渉を拒否しなかった点については何らの説明もなされていない。すなわち、校長が終始交渉に応じながら、その交渉が校長の承認によるものではなかったとする理由を、原判決は全く示していないのである。仮に、右引用部分が、校長が交渉に応ぜざるをえなかった理由をも説明したものであったとしても、右の判示自体で明らかなように、校長は、学校運営を円滑に進めたいとの配慮から、組合員らが職場会を開くことも認め、校長交渉にも応じたというのであって、校長の意思に反して職場会の開催、校長交渉が強行ないし強要されたわけではないのである。そうだとすれば、「前認定の当日の経過」によってみても、前記交渉をもって、校長の承認のない職務放棄、違法な交渉とみることはできないのである。もし原判決が、交渉は校長の承認のもとに行われたが、その承認は、授業の義務を免除する意思を含むものでないという趣旨であるとすれば、それは詭弁というほかはない。蓋し、勤務時間中に、授業をかかえている教員らが交渉を行っているのであるから、校長がこのような交渉を拒否することも、授業を行うべき旨の指示命令も発しないで交渉に応じたことは、校長が授業がなされないことをも諒承していたことを意味することは明らかだからである。原判決が、「校長や教頭は、学校運営の円滑を期するため止むを得ないものと考えて」と述べているのも、職場会や校長交渉のため授業が行えないという結果を招くけれども、そうであっても職場会の開催を認め、校長交渉に応じた方が学校運営が円滑に行われると考えて、職場会の開催や校長交渉を認めたということにほかならないのである。

そして、当時、学テは深刻な弊害を生じ始めており、そのことが新聞紙上でもとりあげられ、重大な教育問題となっていたこと、そのため教員組合や上告人らその組合員教師らがこの問題を教育問題として重視していたことは校長も十分に承知していたことを考えれば、山本校長が前述のように強権的、強圧的態度や一方的強行という事態をできるだけ回避しようとしたとしても、学校運営に責任をもつ校長としては無理からぬところであったといわねばならない。しかも当時は、ILO八七号条約批准に伴う国内法改正の前であり、勤務時間中の組合活動については現行法制よりはよりゆるやかに認められており、現に学校現場では一定の範囲で時間中に組合活動を行っているという慣行・実態があり、校長や教委もこれを認めていたことや、原判決も認めているように、右の交渉には「同校の大多数の教職員が参加し、自然に職員会議のような形となった」こと、交渉の結果「山本校長は、もう一度教頭と相談して返事をする旨述べ」たこと等の事情を考慮すると、右の校長交渉を非違行為として懲戒責任の対象とすることは、どうみても当を得ないものといわねばならない。

二、上告人原田、同国光の六月二二日の行為(原判決理由第二、二、(三)、(4)、(ロ)、(ハ)、(ニ))について

(一) 上告人原田の生徒朝礼での発言について

上告人原田が、生徒朝礼で「職員会議でまだ決まっていないぞ」と発言したことは、生徒朝礼での教員の発言として不穏当であったといえるかも知れないが、職務命令違反(地教行法四三条二項違反)と評価するのは失当である。蓋し、上告人らが学テに関し受けた職務命令は、テスト当日、テスト補助員としての職務(試験監督等)を行うことを内容としたものであった。そして教員組合は、すでに昭和三七年以来、職務命令拒否の戦術を改め、職務命令が出された場合はこれを拒否しないこととしており、上告人原田ら組合員もそのつもりであった(現に、翌二三日、二四日には、上告人らは校長の指示通りテスト補助員の職務についている)。そのことは原判決も認定しているように、校長も知っていたのであって、右の職務命令に関する限り、上告人らに職務命令違背の点はなかったといわねばならない。原判決は、職務命令違反を不当に拡張解釈したもので、当を得たものとはいいがたい。

また上告人原田の前記発言は、学テ問題がその時点では論議継続中で、職員会議で同校の教員らが納得したという段階に至っていないのに、校長が一方的に生徒に学テ実施を告知したことに反発を感じて、思わず発したものであった。山本校長自らも、強権的強圧的方法はできるだけ避け所属教員が納得できるような手続ないし段取りを経て学テを実施しようという態度をとっていたのであり、上告人原田らも、そのことを強く要望していたから、当日の生徒朝礼における山本校長の発言はそれと矛盾するものと感じたのである。そして、職員会議で学テ実施を確認した上で、当日の生徒下校時までに、各クラスの担任を通じて、翌日のテスト実施を伝達することも可能であったわけであるから、上告人原田の前記発言は、職務命令の趣旨とも、決して矛盾するものではなかったのである。

また、原判決は、上告人原田の前記発言は、地公法三五条に違反するというが、この点も失当である。上告人原田の右の発言が穏当であったとはいえないとしても、その内容は上告人らの職務と関連のないことではないのであるから、この発言をもって、勤務時間中に職務外のことを行ったものと非難することには無理がある。

(二) 上告人原田の職場会招集行為について

同日の職場会の開催について、山本校長の明示的承認をえていたかは別として、少なくとも、山本校長がこれを制止したり、就業命令を発したりすることなく、これを黙認していたことは否定の余地はない。そして、右職場会の結果、上告人原田が山本校長に職員会議開催を申し入れたのに対し、山本校長もこれに同意して職員会議を開いているのである。したがって、同日の職場会は、二〇日の職場会同様、職務専念義務に違反するものとはいえない。

また原判決は、右の職場会開催行為をもって「怠業行為」の「そそのかし、あおり」に該当すると判示しているが、これは、地公法三七条一項の不当な拡張解釈といわねばならない。地公法三七条一項は「同盟罷業・怠業その他の争議行為」を禁止しているが、原判決のいう「怠業行為」は、同条項により「争議行為」の一態様とされているものである。しかし右職場会は、原判決も認定しているように、山本校長が生徒朝礼で学テ実施を通告したことに対する分会としての対策を協議し、山本校長に職員会議を開催するよう申し入れることを相談し合ったものであって、いささかも「争議行為」としての実質を有するものではない。そもそも右の職場会の開催が懲戒事由に該当するか否かは、勤務時間中の組合活動の正当性の有無の問題であって(適用法条としては地公法三五条にかかわる問題)、争議行為禁止規定にかかわる問題ではないのである。もし原判決の如く解するとすれば、およそすべての勤務時間中の組合活動は、地公法三七条一項に違反するものとされ、その「あおり」行為等はすべて同法六一条四号により刑罰を科されることとなるのであるが、右各条項がそのようことを予定した法条でないことは明らかである。もし原判決が「怠業的行為」と判示するところを誤って「怠業行為」と判示したとしても――法概念に厳密な裁判所がそのような誤りを犯すとは考えられないが――地公法三七条一項の解釈適用を誤ったものであることには、変りがない。すなわち、同条項にいう「怠業的行為」とは、「怠業」と実質的には差異がなく、同条項が右の両者を特に区別したのは、業務の正常な運営を阻害するに至らなくとも「活動能率を低下させる」行為のあることを予想したためであると解されており、たとえば定時退庁の如き順法闘争を念頭においたものと解されている(佐藤功・鶴海良一郎「公務員法」四〇三頁)。いずれにしろ、争議行為としての実質を有することが必要とされていることにはかわりがなく、原判決が、通常の職場会についてまで地公法三七条一項を適用したことは、法意を無視したきめわて乱暴な適条であったといわねばならない。

(三) 上告人原田、同国光の職員会議での発言について

原判決は、上告人原田、同国光らが、主導的立場に立って、山本校長に職務命令の撤回を要求し続けたことは、「授業その他正規の職務を放てきして他事に従事したものである」と述べるが、職員会議は法令上明文の定めはないが、戦前以来の永い慣行をもち、学校運営全般について検討し、学校の方針を明らかにしていく機関として、学校運営上重要な位置づけを与えられているもので、これに出席して討議に参加することは教員の重要な職務の一環とされている。そして、当日の職員会議は原判決も認めているように、校長が同意して開催したものであること、討議の対象とされた職務命令問題は、教員の職務に直接にかかわるものであり、また学テの実施のしかたにもかかわる問題であって、学校運営上の問題にほかならないこと、校長を始めとして参加教員の誰も、これを職員会議のテーマとすべきでないとして異論を述べたものはいないこと、などからして、上告人らの右職員会議での発言が、「職務を放てきして他事に従事したもの」として職務専念義務に違反したということは到底できないのである。

これに対し原判決は、山本校長の同意はやむなくなされたものであるというが、この点は前記一記載と同じ理由で、右の職員会議が正規の適法な職員会議であることを否定する理由となるものではない。

三、上告人原田、同国光の同月二三日の行為(原判決理由第二、二、(三)、(5)、(ロ)、(ニ))について

(一) 原判決は、同日の職員朝礼において上告人原田、同国光らが、白紙・無記名答案についての無答責問題をもち出し、職員朝礼を延引させたことは、職務専念義務に違背するものというが、職員朝礼自体教員の職務の一環であること、上告人らは始めから無答責問題で職員朝礼をひきのばし、学テの実施時刻をおくらせることを意図していたわけではないこと、その証拠に原判決も認定しているように、学テ開始時刻(午前九時)の到来を指摘したのは、右上告人両名とともに職員朝礼を延引させたと非難されている多治比であったこと、それに対し校長は少しの時間的ずれはあっても良いと答え、それから後も学テ終了後の授業の扱いを協議していること、そして校長が学テ開始の時刻を午前九時二〇分とする旨を指示したこと、テスト補助員に命ぜられた教員は、右の校長の指示に従って、テストを実施するべく各担当教室に赴いていること等をみると、当日のテスト開始時刻が若干おくれたものの、全体として校長の指示に従って学テ実施への運びとなったものということができ、上告人らに職務専念義務に違背する点はなかったといわねばならない。

(二) 原判決は、同日、上告人原田が職務命令書を投げつけたというのであるが、そのような事実の存否はともかく、仮に原判決の認定のとおりであるとしても、上告人原田ら組合員が職務命令に従う意思を有していたこと、及びそのことは校長も知悉していたことは前述のとおりであり、現にその後に上告人原田も職務命令を実施すべく担当教室に赴いているのであるから、同人が職務命令書という文書に対してとった行動が不穏当であったと非難されるのは別として、右の行為をもって職務命令違背と目しえないことは明らかである。

(三) 原判決は、上告人国光が、テスト実施に際し「職務命令によりやむなく学力調査を行わざるを得ない」と述べたことは、命令により不本意ながらテストを行う旨を表明したものと認められるから当該職務命令の趣旨に反すると判示している。

上告人国光が生徒に対してこうした発言をしたことが妥当であったかは問題のあるところであろうが、しかし、上告人国光をはじめとして、当時多数の教員は、学テは生徒の教育上有害なものであることを見抜いており、学テを実施することは、教育者の良心に痛みを感じるものであったこと、生徒らにも教員組合ないし組合員教師が学テに反対であることが知れ渡っていたこと、それにもかかわらず教師が学テ実施に当ることに生徒は割り切れないものを感じていたこと、教師の側でも生徒がそのような気持を抱いていることを知っていたこと、等からして、上告人国光の前記の発言は、生徒に学テ拒否を煽動する意図によるものではなく(この点は原判決も認めている)、当時教師たちがおかれていた苦しい立場について生徒らの理解を求めたものであって、当時の教師の苦渋に充ちた気持が反映したものとみることができる。したがってこうした教師の言動は、もっぱら教室内における教師と生徒との“心のまじわり”の次元での発言としてとらえ、教育上の当否如何として論ぜられるべきものであって、教育者の発言としてみても当を著しく失していると認められる場合のほかは、違法の問題を生じないものというべきである。

四、むすび

以上の如くであるから、結局上告人両名には服務上の義務違背は一切存しないこととなり、これを肯定した原判決は法令違背を犯したものとして破棄されるべきものである。

なお、仮に、以上に述べた点のいずれかに違法な点が残るとしても、次に述べる点を考慮すると、本件各懲戒処分は裁量権を逸脱したものとして違法たるをまぬかれないのである。

すなわち、原判決が検討を加えた処分事由は、上告人原田については一三件、同国光については六件であるが、このうち原判決が違反行為に当らないと判示したのは、上告人原田については六件、同国光については三件であり、被上告人が当初からもっとも重視し、本件懲戒処分の直接の契機となった生徒に対する学テ拒否の教唆煽動を始め、重要な処分事由が違反行為に当らないとして却けられているのである。したがって、仮に原判決があげる裁量要素を加味してみても、上告人らに対し、懲戒免職処分に次ぐ重い処分である停職処分を課することは、任命権者の裁量権の範囲を逸脱するものといわねばならず、これを適法とした原判決は法令の解釈を誤ったものといわねばならない。とくに上告人国光については、わずかに、(1)六月二二日の職員会議での発言、(2)同月二三日の職員朝礼での発言、並びに(3)学テ実施の際、生徒に対し「職務命令によりやむなく行わざるを得ない」旨の発言をしたことが違反行為とされているにすぎず、しかも上告人国光の単独の行為は前記(3)のみである点(前記(2)については、原判決の当日の経過についての事実認定によれば、無答責問題についての発言は多治比が行ったと判示されており、上告人国光が発言したとの事実認定はない。原判決理由第二、二、(三)、(1)、(ヘ)参照)からみると、同人を停職処分に付することは、明らかに処分の程度と処分事由とが均衡を失するもので、裁量権の逸脱は明らかであるといわねばならない。

以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例